初めての沖縄旅行記−(2日目-3)沖縄と戦争について

2021年10月31日

大好きです。糸満市。

青の洞窟シュノーケリングで絶望的だった疲れをステーキで回復させた僕たちはひめゆりの塔へ向かっています。突然の雨で屋内で過ごせるプランを持ち合わせてなかった我々は修学旅行や社会見学的なのノリで何となく向かっていました。

道中も雨が降り続きますが、車内は和気あいあいとした空気です。この頃の話題は中学生レベルだったと思います。多分好きな女の子のタイプとか話してた。

気づくと山道にどんどん入っていきます。沖縄の海とか空とかのイメージとは一転、ローカルな感じ。話は少し逸れますが、沖縄の中で糸満市がすごく好きでして、観光地としてでなく現地の人の生活を感じる地域でして、かりゆし58の潮崎(という糸満市の地区)という歌にもなっている通り「帰ってきたくなる場所」という雰囲気ご大好きです。

糸満で僕の帰りを待っていてくれる方募集したいです(遠い目)

ひめゆりの塔到着

ひめゆりの塔に到着。観光地っぽい雰囲気があり、誘導員のおじさんに案内されるまま駐車場に車を止めます。到着する頃には雨は小雨になり、じとっとした暑さと草木の匂いに包まれていました。駐車場から道路を渡ってまず現れたのは観光ガイドにも載ってる防空壕の景色でした。

ここでひめゆりの塔を語るには沖縄戦のこと無しでは語れないので少し前提を。

沖縄戦(おきなわせん)、または沖縄の戦い(おきなわのたたかい)は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦い。

沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。

沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。

ひめゆりの塔(ひめゆりのとう)は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいる。

ひめゆり学徒隊(ひめゆりがくとたい)とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成されたものの名前。

wikipediaより引用

つまりは沖縄戦で傷ついた兵士を治療することを目的とした専門部隊。そして民間人で看護学校の教師と生徒であったこと。
戦後、最大の犠牲を出した伊原第三外科壕跡に慰霊塔である「ひめゆりの塔」が建立された。これは、ひめゆり学徒隊を祀り、平和を願うために建てられた建造物であること。

これは僕自身学生時代の勉強を疎かにしてたこともありますが、同じ日本である沖縄のこと何も知らなかった。沖縄戦の事実を持ってひめゆりの塔を訪れたかったと思います。

たった3ヶ月で約20万人の方々が戦死するという今では考えられない状況は大人になった自分にグサリと突き刺さったような感覚があらました。

ひめゆり平和祈念資料館の塔の中はじめじめした外とは一転冷房でひんやりとした館内。当時の写真、日記、手紙、ガイドさんなどから説明を受けることができます。戦争で傷ついた兵士の苦しみ、治療したくても出来ない状態がリアルに綴られています。
ただこの時はこの現実を真正面で受け止めていない自分がいたと思います。

沖縄平和祈念公園へ

ひめゆりの塔を後にする。小雨だった雨はまた降り出し、肌に残る資料館の冷房の感覚と見てきた事実を残しながら平和祈念公園に向かいます。

「これはヘビーだわ。重すぎやわ。」

見てきたもののあまりの衝撃になんて軽口を吐いてた気がします。
大人になったからか痛みも知ってる身近な人が亡くなる悲しさや怖さを知ってる。それぞれ強がりながらも心の中に刻み込まれたと感じています。

沖縄県平和祈念公園に到着。前述の沖縄戦終焉の地に建設。毎年テレビで観る供養祭が行われてる場所ですね。首相が色々非難されてるところです。到着時は結構な雨量で視界がはっきりしないレベルだったので資料館に直行しました。

内容は多くは語りませんが、ひめゆりの塔でみたものと同様に写真に加え映像などがあり、戦争があった事実と恐怖や悲しみがしっかり組み込まれていきました。これから沖縄を訪れる方にはこの二つの施設は絶対に訪れてほしいと思います。

資料館を出ると雨は少しマシになっていたので「平和の礎」のほうに向かうとその景色に圧倒されます。ずらっと並んだ刻銘碑には犠牲になった20万人の名前が刻まれており、刻銘碑の前では傘をさして手を合わせているおばあさんがいらっしゃいます。改めて犠牲の上に自分達の生活があることを実感させられる。近くに献花用の花を売ってくれる方がいたので購入して手を合わせることができました。

沖縄戦という戦争が残した傷跡。沖縄北部から侵攻されたことと、なぜ南部の糸満市に祈念公園がある理由を考えた時に恐ろしい気持ちでいっぱいになります。

安易な気持ちで来てしまったが来てよかった。改めて雨の平和祈念公園をぐるりと眺めレンタカーに戻っていく我々。雨の降り続く音だけが残されていました。

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初めての沖縄旅行記−(2日目-4)沖縄最後の夜と様々な人との出会い